本田宗一郎支えた稀代の名参謀・藤沢武夫「経営に終わりはない」

本田宗一郎支えた稀代の名参謀・藤沢武夫「経営に終わりはない」

世界のホンダを育てた共同創業者・藤沢武夫の本メモ

2021/6/15

East Venturesの村上です。(yu8muraka3)
今回はホンダ共同創業者、藤沢武夫の本。「きわめてまれな上質の、それも最上質の人間族の長老のような人物」と評される。


藤沢武夫は本田技研の実質的な経営を担い、カリスマ本田宗一郎を最高に活かす黒子に徹することで、世界的優良企業ホンダの礎を築きました。技術に集中する本田は会社のハンコを藤沢に預けて一度も見たことないくらいすべてを任せ、のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べているほど。

派手ではなく質実剛健、本田宗一郎を誰よりも信頼、尊重し人間レベルの高さを感じました。

そんな象徴的なエピソードを中心にメモします。

創業経緯

本田宗一郎と組んだ経緯。技術は本田宗一郎、金の工面は藤沢武夫という役割で、お互いに自分の領分には一切口を出さない事を約束し一緒にやることになりました。そもそもの発端から志高い。このとき39歳で自分の製材業の会社を10年営んでいた。
私は戦前から、だれかをとっつかまえて、いっしょに組んで自分の思い通りの人生をやってみたいと思っていました。その場合には、私はお金をつくって物を売る。そして、その金は相手の希望しないことには一切使わない。なぜならば、その人を面白くさせなければ仕事はできないにきまっているからです。(略)「おれは金は持ってないけれど、金はつくるよ。金のほうを受け持って、いっしょにやってみたい」
私よりももっと金を持っている人に会ったら、きっと本田の夢は叶えられたかといえば、そうではないと思います。金を持っている人は、その金をもっとふやしたいとか、権力を得たいとか、そういう欲があるでしょうが、私は何しろ仕事がしたかった。自分の才能の限界を知りたいということが、私の夢だった。そして、本田も自分の持っている力を知りたいということですね。

周りからはあまり一緒にいないので不仲と噂されていたが、こういう事情があったよう。初期は膝をつきあわせて話し合い続けた。
本田宗一郎と出会って、本田技研の創業にたずさわった最初の二年ぐらいのあいだ、膝をつきあわせてずいぶん話しあいました。明け方の三時、四時まで話しこんでしまうなんてこともしばしばだった。この対話から生まれてきたものが、本田技研のタテ糸になったわけですが、このタテ糸を性格づけたのは、本田のヒューマニズムであり、私のロマンチシズムだったといっていいでしょう。
ゆえに話をする頻度が下がる初期以降でも、互いを理解できていた。
本田と私とは、お互いに暇がなくて、なんにも話をしない日が多かった。最初のころは、いろいろな本にも書かれているように、毎日いっしょになって話し合ったものでした。けれども、もう方向が決まってからは、お互いの腹のなかは一つですから、話をする必要がない。ただ、やり方が違うだけです。


生産企業としての信念

本業以外でお金は稼がない。ホンダは生産企業で、それ以外で簡単に儲けてしまうと本業で頑張っている多くの従業員の情熱を削いでしまうから。
生産企業は生産企業なんですから、為替差益なんかで金儲けをしちゃいけない。だから、私は本業以外のもので金儲けをしてはいけないという原則を、本田技研でつくってしまったのです。本田技研は本業で金儲けをする。もっと金儲けをしたかったら、パチンコ屋でもやりゃあいいんだ、というのが私の経営理論なんです。(略)生産企業では、つくっている商品で儲けているということで、技術者にしても、現場の人たちにしても誇りを持つことができる。おれたちが一生懸命働いているから会社が成り立っているんだということです。
ところが、ある特定の一人、二人が為替をいじって、五千万とか一億円儲けたとします。すると、営々と働いて三千万円の利益しかあげられない多くの人たちは、為替の大儲けに決していい感じは持たないだろうと、私は思います。 物をつくる会社に働いている物をつくる人たちは、自分たちの働きが、あるひとつの知恵による稼ぎよりも劣ったものでしかないと思ったときに、寂しさを感じて、情熱を失ってしまうだろうと思う。ホンダは物をつくる会社なのです。 ですから、どんなに儲かる話があっても、その話には乗らない。儲けるならみんなの働きで儲けるんだということを、ホンダの金科玉条にした。

個人でも稼ごうとしない。身ぎれいにしておき、金儲けを一本化していないと困ったときに一緒に頑張ろうとはならない。本田宗一郎との関わり方もそうですが、人間がどういうものなのかへの理解が深遠
(略)しかし、どんな場合にも本業以外で儲けることはやりませんでした。 個人でもやりません。株にだって手を出せないわけはないんですが、私はやりません。自分の身のまわりはいつもきれいにしている。だから、みんながついてきてくれる。つまり、私が何をいっても安心していられるのは、私の身ぎれいさ──それは金の問題に関してですが──それが重要なポイントです。
そうすれば、私が苦しむときに、みんなにも苦しんでくれといえます。 たいへんな時期ですから会社の連中も必死です。決して楽だとはいえません。努力していると思います。しかし、努力しながらも、バタバタしないでいられるのは、これ以外に自分たちが金儲けする方法はないんだから、自分たちの力でやるんだということを、うちの会社の連中がみんな知っているからです。


藤沢が大事にした「万物流転の法則」

藤沢のおそらく根本にある思想の一つ。
世の中には万物流転の法則があり、どんな富と権力も必ず滅びるときが来る。しかし、だからこそ本田技研が生まれてくる余地があった。だが、この万物流転の掟があるかぎり、大きくなったものもいずれは衰えることになる。
本来なら、一度大きくなった会社は没落するはずがない。資本からいっても、人材からいっても、大きな力を蓄えているし、社会的な信用も絶対だ。だから、そのなかに割りこもうとする小企業がかなうはずがない。しかし、小さなものが生きてゆくためには、万物流転という法則を成り立たせなければならないのではないか。  ホンダがここまで成長してこられたのも、万物流転の法則に乗っているからです。けれども、ホンダがいつか大きくなったときに、やはり新しく進出してくるものに負けるというのが万物流転の掟です。だから、こんどはその万物流転の法則をどのようにして避けることができるかということを考えなければならない。それが新しい組織づくりの元本になるのです。

人間性や考えが垣間見えるエピソード集

部屋にこもって企業分析
評論家の言うことが間違っているのではないかと思い、部屋に籠もって企業分析をして自らの力で判断する力を身に着けた。思考の独立性が強い。
昭和三十年になってから、私は銀座の越後屋ビルに部屋を借りて、そこに一人で引き籠りました。そこで、日本のいろいろな企業の経営分析をやってみました。要するに、経理担当者の分析とジャーナリストの分析と経営者が分析するのがみな同じなのはおかしいのではないか、と思ったのです。その時分に好調だった東洋レーヨンとか、トヨタ、日産という同業会社、そして、日立、松下電産などの有価証券報告書を基礎にして勉強しました。売上げがいくらのときに、売掛金はどうか、在庫はどうか、借入金や現金はいくらあるかというようなことを、すべて分母を売上高にして計算してみたんです。(略)評論家や学者のいっていることと正反対のことをやれば、生き残れるのじゃないか、ということを知ったわけです。

社長には、むしろ欠点が必要
実質的な経営を行ったのは藤沢武夫であったが、本田宗一郎が社長としてTOPとして相応しい理由
本田技研の経営を担ったのは私でした。それは会社のなかで知らない人はほとんどなかったでしょう。もっとも、最近入社した人は知らない。しかし、だからといって、それならば私に社長が務まるかといえば、それは無理です。 社長には、むしろ欠点が必要なのです。欠点があるから魅力がある。つきあっていて、自分のほうが勝ちだと思ったとき、相手に親近感を持つ。理詰めのものではだめなんですね。あの人には、それがあります。欠点があるから他人から好かれないかといえば、あれだけ人に好かれる人もめずらしい。社員からも好かれている。欠点はたくさんあります。それは、うちの連中、百も承知している。口に出さないだけです。私のほうが欠点は少ないでしょう。だが、その分魅力がない。だから、社長業は落第です。

労組1600人からの反発に1人で乗り込み
昭和29年、資金繰りが悪化しボーナスを5000円にするという、相場からすれば1/4にも満たない額で労組から猛反発にあい、1600人いる組合員のもとにたった一人で乗り込んでいき正直に語りました。
「問題にならない低い金額だ。しかし、もしもう少し出せたとしても、あとで会社がつぶれたときに、なぜあのとき頑張らなかったのかと追及されるとすれば、経営者としてまことに申し訳ないことになる。それよりも、年明けて三月ごろになればまた車も売れるだろうから、そのときにまた団体交渉をしたい」 と返事をした。そうしたら、みなも私の気持を汲んでくれたのでしょう、万雷の拍手です。拍手がとまらなかった。

華やかな職場へは行かない
本田とは逆に、私はめったに工場へは行かなかったのですが、工場へ行ったときは、必ずプラスチック部門に顔を出すようにしていました。  プラスチックは、例の最初のジュノオ号の失敗で、使いようがなくなっていて、現実には生産の役には立たないけれど、将来のためにいろいろ試作をしているわけです。  そこへ行って、 「どうだい、やってる?」  というようなことで、一時間でも二時間でも、私は話しこんでくる。いま仕事のある華やかな職場には行きません。私がそんなとこに行ったってしようがないんですよ。
銀行との取引を一本化するなど、何でもシンプルにする信条
中小企業から脱皮しようというときに、いちばん大切だといまにして思うのは、手形の発行を三菱以外ではしなかったことです。(略)金の流れが主力銀行にはっきりわかるようになっていたわけです。現在もそうです。これが主力銀行を非常に安心させる原因じゃないかと思います。  単純なことだけれども、これがなによりも大事です。なにかという時に、いくつもの銀行をまわらずにすむから、くたびれもしません。
私の経営信条は、すべてシンプルにするということです。シンプルにすれば、経営者も忙しくしないですむ。そのためには、とにかく一度決めたら、それを貫くことです。状況が変わっても、一筋の太い道を迷わずに進むことです。


藤沢による本田宗一郎、技術者としての幕引き

当時公害問題が発生し、アメリカはマスキー法という超厳しい基準の排ガス規制を敷いた。大手のGMやダイムラーさえクリア不可能と言われるほど。そんな中、ホンダはこれを好機と見て開発に取り掛かろうとしたが、空冷エンジンか水冷エンジンどちらでいくか意見が割れてしまう。本田宗一郎は空冷派だったが、他の技術者は全員水冷派だった。
「重要なことがあります。社長は空冷だといわれているんですが、そちらの途は水冷にくらべてとても困難だと私たちは考えています。時間との競争もありますので一刻も早く方針をきめる必要があります。時間がありません。水冷ならば、絶対とはいえなくても、かなりの可能性があると思います」
東京へ戻ると、私は本田にこの技術者たちの意見を伝えました。 「いや、空冷でも同じことだ。できないことはないよ。あんたに説明してもわからんだろうけれど」 本田宗一郎は信念の人であり、それが技術にかけてはなおさらですから、その考えを変えさせるのは並大抵ではできないと思った私は、 「あなたは本田技研の社長としての道をとるのか、それとも技術者として本田技研にいるべきだと考えるのか、どちらかを選ぶべきではないでしょうか」 といった。 彼はしばらく黙っていましたが、 「やはり、おれは社長としているべきだろうと答えました。 「水冷でやらせるんですね?」 「そうしよう。それが良い」 結局、心から賛成してくれました。
二人の信頼関係あってこそのシーン。そして世界で初めて基準クリアしたCVCCエンジンを見事完成させた。
さらにこれは藤沢にとっては、ある程度想定済みであった。
私は二十九年以来、新しい本田技研の組織づくりを目指してきたんですが、それがエキスパート制度、研究所の独立、役員室の設置というように、下のほうから順につくり上げてきた。最後に残っていたのが社長をどうするか、つまり本田をどのように位置づけるかということです。 社長でもあり、技術者でもあるというようなことでは、組織は定まらないんです。社長をとるか、技術者をとるかという選択を迫られた本田が、このとき社長業というものの在り方をすなおに受けとってくれたことで、私の組織図は完成したんですね。
水冷対空冷の問題は、本田に社長というものの在り方を考えてもらえる、いいきっかけだったんです。ここで本田のすぐれた技術者としてのバトンは研究所にしっかりと渡された。そして、ホンダの未来をつなぐ組織は、ここでようやく完成したのです。しかし、いま私は、本田に空冷で研究開発させてあげたかったなと思っています。彼の才能をもってすれば、空冷でもきっとやり遂げられたでしょうから。


天才頼りから、組織への移行プロセス

藤沢武夫と本田宗一郎の引き際はとても美しいですが、それも藤沢が本田宗一郎依存の会社にならないよう入念に組織を作り上げていったからなのかなと。ちなみに「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、身内は社内に入れない方針をとった。

まず安易に組織をつくらせなかった上、他の企業が作っているピラミッド型組織を鵜呑みにして採用せず、ゼロベースで考えている。
私としては、そういっては語弊があるけれども、創業期の会社にはあまり優秀な人は入ってこない。企業が成長して、実績ができて、まして有名になってくれば、人材は集まってくるだろう。そのときまでに部長だとか課長だとかの階級をつくってしまうと、身動きがとれなくなって、将来に禍根を残すだろう、という考えがあった。だから、みんなから要望があり、総務の人たちからも矢の催促でしたけれど、私は組織をつくらせなかったんです。
「こういうふうに急激に成長しているからには、すでに優れたものがあるからではないか、本田宗一郎という人は、ふつうの人物ではない。この人を組織の中に入れたら、全然だめになってしまうだろう。この人を生かすためには、在来の考え方とはまったく違った組み立て方があるはずだ。この人を生かせないような組織をつくったってしようがない。たまたまその人が最初にいたから社長だということになっているが、私が欲しいのは、何人もの本田宗一郎であり、こういう人が何十人も揃ったときに企業は安泰になる。そのためには、ピラミッド型の組織ではだめですよ
振り返りとしてこうも言っている。
要するに、すべて本田宗一郎がいなくなったらどうするかというところから発想されたことです。本田の未知への探求という基本は貫かなければならないけれど、彼個人の挑戦には限界があります。彼の知恵が尽きても、それに代るものがどんどん現われてくるような、それでも逆に企業が伸びてゆくような組織体をつくったつもりです。


エキスパート制度

ホンダは制度として「未来の開発」が任務である専門職制度を1968年に15年近くの準備を経て実施している。その制度への下準備であり、エキスパートの能力を引き出す目的で始めたのが、仕事ぶりを職場の壁を超えても把握できるようにする日記「私の記録」
「私の記録」は、専門職制度への下準備でもあったのです。  このようにして、それぞれの個性と業績を明らかにしておけば、溶接にいるこの男と機械のあの男とを結びつければ、新しいものが生み出せるかもしれない、ということにもなるし、またこういう能力を持った人が欲しいというときにも役立つわけです。
(略)たとえば、人使いが下手な人がいます。組織のピラミッドのなかでは、人を使うことが下手な人は出世しません。でも、こういう能力があるけれども、はんこを捺したり、管理したりするのはいやだという人がいます。また、組織のなかでリーダーシップをとることが得手の人がいます。だから、知恵のある人と、知恵はなくとも真面目にやっている人とがいっしょに仕事できる仕組みにすることが大事なのです。
「私の記録」は人事、給与、能力など、いろいろな面から見るんです。クモの巣の糸のなかの人間であることが重要なんですね。どんな能力を持っている人でも、上役に変な人がいて、その上役だけの評価で判定されると芽が出ないものです。だから、いろいろな方向から見てやることが必要です。


研究所の独立

技術者がピュアに技術を追求できるように、ピラミッド型の出世競争とは切り離した組織を別に作った。
つぎは研究所の独立です。二十九年の失敗は、本田宗一郎というすぐれた才能に、あまりにも頼りすぎたということです。その反省の上に立って、私は一人の本田宗一郎をカバーできる組織が必要なのだと考えました。
大学を出て、技術者として企業に入ってきたとき、技術で身を立てることが青春の夢なのです。一般の企業の場合、技術者も年齢に応じて人の長になってゆきます。出世コースに乗りたい欲はあるものです。すると青春の夢が消えてゆく。(略)これではせっかくの技術者の能力を台なしにしてしまうことになります。  そこで、 「好きで入ったその道の学校を出た人は、一生その技術で生きてもらいたい。そのために、地位、名声、収入も十分に満足してもらえる仕組みをつくりたい」
こうして、研究所を独立させて、別な会社にしたのです。企業の組織の中にある研究所は、人数も多くないし、使える金にも限界があります。そこで、ホンダ本社の売上げの三%をそっくり研究所に渡して、それで賄うようにしました。
ピラミッド型の組織だと、課長の数に制限がありますが、トップだけがいて、あとは横並びの文鎮型組織の研究所ならば、何百人課長がいてもおかしくない。新入社員でも技術が優秀なら、必ず主任研究員になれるし、さらに主席研究員になれます。また、人数に制限のあるピラミッド型組織と違って、人間同士の摩擦がない。  この研究所がホンダの元本です。競争メーカーがどう出てきても、まったく脅威を感じないでいられるのは、この前衛部隊があるからです。


役員室の設置

役員に自分の部屋に居させず、大部屋にいるようにしてもらった。部署に閉じずに集団思考で、個人に依存しないようにしていった。
「いや、重役は何もしなくていい。おれもそれでやってきた。何もないゼロのなかから、どうあるべきかという問題を探すのが重役の役目で、日常業務を片付けるのは部長以下の仕事だ。(略)だから、役員は全部こっちへ来て、何もないところからどうあるべきかを探してほしい」
とにかく、みんなで大部屋に入って、毎日ムダ話をしていてほしい、といっているうちに、いろいろなことが出てきます。それは重役の共通の話題です。それまでは各部のなかにおける話題だったものが、つまらないことでも重役としての話題になると、そこに共通の広場ができて、共通の話題がどんどん分厚になってきます。
こうして、もはや本田なり私なりが決めるのではなく、下からのアイデア、上からのアイデア、いろいろなものをこねまわし、集団思考でやっていける体制づくりが完成していったわけです。

そして二人揃って引退

昭和四十八年の正月に、私はいいました。 「かねてから考えていたとおり、今年の創立記念日には辞めたいと思う。社長はいま社会的な活動をされているし、どうされるかわからないが、私からいわないほうがいいだろうから、専務から私の意向を伝えてもらいたい」  が、私は本田宗一郎との二十五年間のつきあいのなかで、たった一回の、そして初めで終わりの過ちをおかしてしまいました。
本田は私のことを聞くとすぐ、 「二人いっしょだよ、おれもだよ」  といったそうなのです。ほんとに恥ずかしい思いをしました。  その後、顔を合わせたときに、こっちへ来いよと目で知らされたので、私は本田の隣りに行きました。 「まあまあだな」 「そう、まあまあさ」  しかし、実際のところは、私が考えていたよりも、ホンダは悪い状態でした。もう少し良くなったところで引き渡したかったのですが。 「ここらでいいということにするか」 「そうしましょう」  すると、本田はいいました。 「幸せだったな」 「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」 「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」  それで引退の話は終わった。

ちなみに「ホンダの社長は、技術畑出身であるべき。」という言葉を残しており、現在までもこの方針は守られ続けている。

海外スタートアップDB






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